織田寛定

 
凡例
織田寛定
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 明応4年9月7日(1495年9月25日[1]
別名 通称:五郎
官位 近江守丹波守
幕府 室町幕府 尾張下四郡守護代
主君 斯波氏
氏族 清州織田氏(大和守家)
父母 父:織田敏定[2]
兄弟 寛定寛村敏信?、敏宗良信?、
秀敏信定?、信安?、飯尾定宗?、
大雲永瑞?
正室:石丸利光
テンプレートを表示

織田 寛定(おだ とおさだ/ひろさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将尾張国下四郡の守護代。通称は五郎。官位近江守丹波守。尾張日置城主。

略歴

尾張の海東郡中島郡・愛知郡の三郡(後に尾張下四郡)を支配した清洲城の守護代「織田大和守家」の織田敏定[2](『信長公記』では織田寛広)の嫡男として誕生。主君の尾張守護斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛定と名乗ったと推定される。

明応3年(1494年)、美濃国守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼・石丸利光方に味方して、土岐政房斎藤妙純方の岩倉の上四郡守護代で織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、明応4年(1495年)7月、父が陣中に死去する。構わずに寛定は布陣を継続したが、一度、尾張へと下国して寛定は家督を継いだ。しかし、同年9月には美濃で討ち死にした。家督は一説に弟とされる寛村が継いだ。

脚注

  1. ^ 『尾張群書系図部集』上 217頁
  2. ^ a b 『清洲町史』の織田氏系図

出典

  • 『尾張群書系図部集』
  • 『清洲町史』
  • 信長公記
織田氏 (平姓)

尾張国守護代家

伊勢守家
大和守家
因幡守家
  • 広長
  • 広貞
  • 広延
  • 達広
  • 広信
藤左衛門家
弾正忠家

弾正忠家の分家・支流

信長流
信長
信忠流
信忠 - 秀信 - 絶家
信雄流
信雄
信良流
高長流
高長
長政
高家
高家分家
  • 信清
  • 信安
  • 信序
  • 信虎
  • 房之助
勝長流
勝長
津田家
  • 勝良
  • 長政
  • 喬長
  • 信要
  • 信節
  • 伝八郎
  • 主税
  • 信勝
  • 則長
信高流
信貞流
信貞 - 貞置
高家
貞則流
貞輝流
信勝流
信勝 - 信澄
昌澄流
昌澄 - 信高
  • 信英
  • 信栄
  • 信温
  • 長義
  • 信活
信包流
信包
信当流
信治流
信治
柘植家
長益流
長益
長孝流
長政流
尚長流
  • 表示
  • 編集