紀元前155年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前170年代 前160年代 前150年代 前140年代 前130年代 |
年 | 前158年 前157年 前156年 紀元前155年 前154年 前153年 前152年 |
紀元前155年(きげんぜん155ねん)は、ローマ暦の年である。あるいはローマ建国紀元599年、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムとマルクス・クラウディウス・マルケッルスの年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
ヒスパニア
共和政ローマ
- 執政官スキピオ・ナシカはダルマチアのデルミニウムを征服し、ローマで凱旋式が行われ、また、同僚のマルケッルスも、リグリアに対する勝利で凱旋式を挙行した[1]。
- プラエトル・ウルバヌスのアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスは、元老院を召集し[1]、アカイア同盟の捕虜解放を求める使節団と、アテナイから来たアカデメイアのカルネアデス、ストア派のディオゲネス、逍遙学派のクリトラウスを迎えた[2]。
バクトリア
- メナンドロス1世がインド・グリーク朝の王として治世を始めた。領土は、東はバクトリア(パンジシール州、カーピーサー州)から現在のパンジャブ州、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ジャンムー地域にまで拡大した。首都はパンジャブ州北部で繁栄した都市で、現在のスィアールコートにあると信じられているサガラであると推定されている。
誕生
「Category:紀元前155年生」も参照
死去
「Category:紀元前155年没」も参照
- 申屠嘉 - 前漢の政治家(生年不明)
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、紀元前155年に関連するカテゴリがあります。