田中和泉

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たなか いずみ

田中 和泉
生誕 (1931-08-11) 1931年8月11日
東京都
死没 (2020-01-20) 2020年1月20日(88歳没)
東京都
死因 心不全
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
出身校 早稲田大学第一商学部卒業
職業 実業家
活動期間 1954年 - 2020年
団体 東京放送(TBS)
肩書き TBS代表取締役社長
任期 1989年6月 - 1991年10月
前任者 濱口浩三
後任者 磯崎洋三
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田中 和泉(たなか いずみ、男性、1931年昭和6年〉8月11日 - 2020年令和2年〉1月20日 )は、日本実業家TBS社長。東京都出身。

来歴・人物

1954年(昭和29年)、早稲田大学第一商学部を卒業後、TBSの前身であるラジオ東京に入社。テレビ本部管理部長、企画部長、現業管理室長、経理局長を歴任する。

1983年(昭和58年)取締役に選任され、1987年(昭和62年)常務、1989年(平成元年)社長に就任し、秋山豊寛を日本人初の宇宙飛行士として宇宙空間に送り込んだほか、民放初の経済部を立ち上げた[1]。しかし、損失補填問題の発覚を受け、1991年(平成3年)に社長を辞任した[2]

2020年(令和2年)1月20日、心不全のため東京都内の病院で死去[3][4]。88歳没。

ザ・ベストテンとNEWS23

1989年(平成元年)のゴールデンウィーク中日、『ザ・ベストテン』のプロデューサー山田修爾は、原田俊明編成部長(のちTBS執行役員・トレソーラ社長)から食事に誘われ、その席で「ベストテンまだ続けるか? お前に任せるから考えて答えをくれ」と言われ、それから2ヶ月間悩み[5]、7月6日の放送で司会の黒柳徹子から9月末で番組が終了すると発表される。

ザ・ベストテンは「見る側(視聴者)」、「出る側(歌手タレント)」、「作る側(制作スタッフ)」それぞれの「番組を面白くしよう」という共通目標が人気を支えてきたTBSを代表する音楽番組だったが、80年代後半となるとその構図が崩れ[6]、高かった視聴率も良かったり悪かったりの状態となった[7]。また『筑紫哲也 NEWS23』開始に伴うプライムタイム枠の再編とも相まって、第603回の放送で11年9か月続いた番組は終了した[8]。この看板番組の終了と平日最終版ニュースの立ち上げが、社長就任後最初の大仕事となった。

平成新局開局の背景

田中が富山県富山市に本社を置くIT企業『インテック』を訪れた際、インテックと関わりの深い東京都港区浜松町の企業『プラネット』[注 1]の現会長である玉生弘昌[注 2]に対し「今時、新しい系列局を作っても採算に合わない」と新規のJNN系列局の設置に消極的な姿勢を見せていたという[10]

だが、社長就任すると、その年の10月1日にはテレビユー福島以来、6年ぶりとなる新規系列局で山形県民念願のJNN系列局である『テレビユー山形』が開局。更に翌年10月1日には、富山県民念願のJNN系列局である『チューリップテレビ[注 3]も開局した。両局ともその後、TBSホールディングスが主要株主として資本参加している。

社長退任とその後

1991年(平成3年)7月29日、バブル崩壊のニュースが連日報道され、銀行証券会社の不祥事も次々と明るみに出る中、そうしたバブル期の銀行や証券の行為に批判を加えていたTBS自体が、こともあろうに野村日興証券から6億5千万円の損失補填を受けていたことが明るみに出た[11]。さらにこのTBSの損失補填に直接かかわっていた責任者が経理出身の社長、田中であったことも加わって、TBSはその報道に仕方、コメントなどをめぐり、大揺れに揺れ、会社としての意見集約がなかなかまとまらなかった[11]。NEWS23キャスターの筑紫哲也は、他の企業は批判してきたのに、これを見過ごしたら局の信用が傷つくだけでなく、番組への信頼性も崩壊すると思い、普段の流儀を捨てて、スタッフに集まってもらい、番組生命の危機であるという自分の認識を伝え、それに基づいた番組を作った[12]。田中は、社の損失を補填で少しでも食い止めたことは社の利益こそ守れ、悪いことではないという見解の持主である上に、社内に対抗勢力がほぼ皆無の、盤石の体制にあった[13]

むずかしい社内状況が続くなかで、アウトサイダーである筑紫に何らかの役割を期待する空気がうまれた。筑紫は冗談じゃない、と思ったが、それでも一度だけ田中に会い「TBSは民間会社とはいえ、報道機関であることが普通の会社とはちがう」と告げ[13]、面談に一人だけ立ち会った磯崎洋三常務と職場に戻る廊下を歩きながら、「社長の首を取る旗振り役を私に期待する空気がありますが、私にはそんな気はありませんよ。これは社員のみなさんで解決すべき問題なんですから」と言った[13]。この損失補填問題は長く軋轢を生み、経営陣OBの反発や組合の社長辞任要求まで飛び出し、結局、3ヵ月後に田中は社長を辞任した[2]

3時にあいましょう』のプロデューサー2人[注 4]が、上祐史浩村井秀夫オウム真理教の幹部に放送前の坂本弁護士のインタビューテープを見せた事が発端となり、坂本弁護士一家殺害事件が起きたのは、田中が社長に就任した1989年であるが、事件が発覚したのは、田中を引き継いだ磯崎が社長時代の1996年である。ことの深刻さは、損失補填の比ではなく、磯崎はTBSビデオ問題の矢面に立たされ[13]、事件の責任をとって社長を引責辞任している。

脚注

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注釈

  1. ^ 1985年設立[9]。2021年現在は文化放送メディアプラス内に本社を置く。同名のシステムインテグレータ企業とは無関係。
  2. ^ 玉生 弘昌(たまにゅう ひろまさ)・1944年〈昭和19年〉生。埼玉県川越市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。田中の実の従弟である[10]。プラネット設立前はライオンに勤務していた[9]
  3. ^ 当初の社名は「テレビユー富山」であった。
  4. ^ 両者とも事件発覚直後に懲戒解雇

出典

  1. ^ “田中和泉さん死去”. 朝日新聞デジタル. (2020年1月24日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14338696.html 2023年6月24日閲覧。 
  2. ^ a b 嶌 1995, p. 268.
  3. ^ “田中和泉氏が死去 元TBS(現TBSホールディングス)社長”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2020年1月23日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54758880T20C20A1CZ8000/ 2020年1月23日閲覧。 
  4. ^ “田中和泉氏死去(元TBS 現TBSホールディングス 社長)”. 時事ドットコム (時事通信社). (2020年1月23日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2020012301165 2021年5月16日閲覧。 
  5. ^ 山田 2011, p. 205.
  6. ^ 山田 2011, p. 202.
  7. ^ 山田 2011, p. 206.
  8. ^ 山田 2011, p. 362.
  9. ^ a b “会長プロフィール:トップメッセージ”. 株式会社プラネット. 2021年7月26日閲覧。
  10. ^ a b 玉生弘昌 (2017年8月15日). “損失補てん事件”. 会長のエッセイ. 株式会社プラネット. 2021年7月26日閲覧。
  11. ^ a b 嶌 1995, p. 265.
  12. ^ 筑紫 2002, p. 179 - 180.
  13. ^ a b c d 筑紫 2002, p. 180.

参考文献

TBS歴代社長会長
歴代社長1
歴代会長1 3
歴代TBSテレビ社長4
歴代TBSテレビ会長4
歴代TBSラジオ社長5
  • 清水洋二2000.3-2007.6
  • 余田光隆2007.6-2009.6
  • 加藤嘉一2009.6-2012.3
  • 入江清彦2012.4-2018.6
  • 三村孝成2018.6-2023.6
  • 林慎太郎2023.6-
歴代TBSラジオ会長5
11951年5月17日設立の法人(旧・東京放送→東京放送ホールディングス→現・TBSホールディングス)における歴代の社長・会長を通しで記載。
2前社長急逝に伴う臨時代行
31976年6月~1977年6月、1983年6月~1986年3月、1989年6月~1996年6月、2001年6月~2002年6月、2006年6月~2009年3月の会長職は空席
42004年10月に制作子会社3社(2000年から2001年に分社化)が合併・発足以降の歴代の社長・会長を記載
52000年3月の分社化以降の歴代の社長・会長を記載
62021年6月-2023年6月は会長職空席。