津久井城
津久井城 (神奈川県) | |
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津久井城が築かれた城山 | |
別名 | 筑井城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 筑井氏 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な改修者 | 津久井三郎 |
主な城主 | 筑井氏(津久井氏、築井氏)、相模内藤氏、後北条氏 |
廃城年 | 天正18年(1590年) |
遺構 | 土塁、堀切、郭、土橋、虎口、石垣、石列 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯35度34分58.80秒 東経139度16分43.68秒 / 北緯35.5830000度 東経139.2788000度 / 35.5830000; 139.2788000座標: 北緯35度34分58.80秒 東経139度16分43.68秒 / 北緯35.5830000度 東経139.2788000度 / 35.5830000; 139.2788000 |
地図 | 津久井城 |
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津久井城(つくいじょう)は、神奈川県相模原市緑区にあった日本の城。後北条氏の時には武田軍への最前線の城として重要視された。筑井城とも表記される。
構造
隣接する津久井湖はダム湖で、当時には無いことを理解する必要がある。城山に築かれた山城。南北の根小屋が残っており根小屋式城郭の端緒・典型とされている。ただし、最近の調査・研究の結果、山頂付近にも物見櫓や兵士駐屯のための建物が配置された形成も発見されており、落城前には、相応の防御能力があった山城であることが窺えるようになってきた。
歴史・沿革
鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城したと言われている。大江(毛利)氏の津久井三郎の居館として現在地の詰めの城と、同八幡社の行政舎が整備されたと言われる。本格的に城として使われ始めたのは戦国時代の後北条氏の時であった。この地は甲斐と小田原を結ぶ要所であるため武田軍と後北条軍が鎬を削ったところである。後北条氏は武田軍にそなえて、津久井城主の内藤氏らを中心に津久井衆と呼び守らせたが実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は奥三保(現在の裏丹沢)などの武田氏の勢力下(小山田氏を盟主とする郡内衆)だった。
1569年(永禄12年)の三増峠の戦いの時は、武田側の小幡信貞、加藤景忠ら上野原衆によって押さえられて出陣できなかった。
1590年(天正18年)の小田原征伐の時には城主内藤景豊は小田原城にいたので、老臣等が守っていたが、徳川家康の武将平岩親吉らによる攻撃により6月25日に開城した。その後城は廃城となり徳川直轄領。近くに陣屋を置き八木家などの代官がこの地を統括した。
城山の中心部分は相模原市緑区根小屋に存在するが、津久井郡に属していた城山町(現・相模原市緑区)の名は城山の東の麓にあることに由来する。
考古資料
遺構
現在津久井城には、家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが残っている。また、発掘調査が行われた根本・城坂の「御屋敷跡」では掘立柱建物や空堀、土塁、焔硝蔵などが検出されている。現在は主要部分が神奈川県立津久井湖城山公園となっており、ハイキングコースも整備されている。
関連文献
関連項目
外部リンク
- 津久井湖城山公園
- 津久井城と北条氏