アレクサンダー・ベアリング (初代アシュバートン男爵)
初代アシュバートン男爵 アレクサンダー・ベアリング Alexander Baring 1st Baron Ashburton | |
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生年月日 | 1774年10月27日 |
没年月日 | (1848-05-12) 1848年5月12日(73歳没) |
死没地 | ![]() |
所属政党 | トーリー党(保守党) |
称号 | 初代アシュバートン男爵、枢密顧問官(PC) |
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内閣 | 第1次ピール内閣 |
在任期間 | 1834年12月15日 - 1835年4月8日 |
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選挙区 | トーントン選挙区(英語版) キャリントン選挙区(英語版) セットフォード選挙区(英語版) 北エセックス選挙区(英語版)[1] |
在任期間 | 1806年11月4日 - 1826年6月19日 1826年6月12日 - 1831年7月25日 1831年5月2日 - 1832年12月10日 1832年12月10日 - 1835年4月10日[1] |
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在任期間 | 1835年4月10日 - 1848年5月12日[1] |
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初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング(英: Alexander Baring, 1st Baron Ashburton.PC、1774年10月27日 - 1848年5月13日)は、イギリスの銀行家、貴族、政治家。
アメリカ合衆国に造詣が深く、ベアリングス銀行のアメリカ進出を進めた。
経歴
1774年10月27日、ベアリングス銀行の創設者である初代準男爵サー・フランシス・ベアリングとその妻ハリエット(旧姓ヘリング)の次男として生まれる[2][3]。兄に準男爵位を継承するサー・トマス・ベアリング(英語版)がいるが[2]、兄は東インド会社に勤務していたため、弟であるアレクサンダーが若い頃から銀行家として訓練を受けた[3]。
19世紀に入ってまもない頃に父が引退すると、長兄トマス、長弟ヘンリー(英語版)とともにベアリングス銀行を継承した。これに伴って1807年に「ベアリング・ブラザーズ」と社名を変更している[4]。兄弟の中でも彼が最も主導的で1810年の父の死で代わってベアリングス銀行頭取となる[3]。
アレクサンダーはアメリカ進出を積極的に推し進めた。建国されたばかりのアメリカ合衆国のロンドンにおける代理人となり、1803年にはアメリカがフランスからルイジアナを買収できるよう取り計らい、その代金であるアメリカ政府債の発行の引受を行っている[4]。1828年にはアメリカでのビジネス拡大を狙ってアメリカ人銀行家ジョシュア・ベイツ(英語版)をベアリング家以外から初めてパートナーに迎え入れた[5]。その後の1830年に経営から引退している[4]。
1806年にトーントン選挙区(英語版)から庶民院議員に初当選して以来(1826年まで同選挙区から当選、1826年から1831年までキャリントン選挙区(英語版)、1831年から1832年までセットフォード選挙区(英語版)、1832年から1835年まで北エセックス選挙区(英語版)から選出される)、政界でも商業関連の問題で積極的に活動している[3]。
1834年から1835年にかけては第2代準男爵サー・ロバート・ピールの第1次内閣で通商長官と造幣長官(英語版)を務めた[3][6]。
1835年4月10日に「カウンティ・オブ・デヴォンにおけるアシュバートンのアシュバートン男爵(Baron Ashburton, of Ashburton in the County of Devon)」に叙され[6]、貴族院議員に列した[1]。
英領カナダとアメリカ合衆国の国教紛争をめぐって1842年にはアメリカに特使として派遣され、ウェブスター=アッシュバートン条約を締結した[3]。
1848年5月13日に孫に当たる第4代バス侯爵ジョン・シン(英語版)の邸宅ロングリートで死去[3]。爵位は長男ビンガム(英語版)が継承した。
栄典
爵位
その他
家族
1798年にペンシルバニア州選出のアメリカ上院議員ウィリアム・ビンガム(英語版)の娘アン・ルイーゼと結婚し、彼女との間に5男4女を儲けた[3]。
- 第1子(長男):第2代アシュバートン男爵ビンガム・ベアリング(英語版) (1799–1864)
- 第2子(次男):第3代アシュバートン男爵フランシス・ベアリング(英語版) (1800–1868)
- 第3子(長女):ハリエット・ベアリング閣下 (1804-1892):第3代バス侯爵ヘンリー・シン(英語版)と結婚。
- 第4子(三男):フレデリック・ベアリング閣下 (1806–1868)
- 第5子(次女):アン・ユージェニー・ベアリング閣下 (-1839):ハンフリー・セント・ジョン=マイルドメイ(英語版)と結婚。
- 第6子(四男):アレクサンダー・ベアリング閣下 (1810-1832)
- 第7子(五男):アーサー・ベアリング閣下 (1818-1838)
- 第8子(三女):ルイーザ・エミリー・ベアリング閣下 (-1888)
- 第9子(四女):リディア・エミリー・ベアリング閣下 (-1868)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d UK Parliament. “Hon. Alexander Baring” (英語). HANSARD 1803–2005. 2015年2月15日閲覧。
- ^ a b Lundy, Darryl. “Sir Francis Baring, 1st Bt.” (英語). thepeerage.com. 2015年2月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Courtney, William Prideaux (1885). "Baring, Alexander" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 03. London: Smith, Elder & Co.
- ^ a b c 田中(2008) p.3
- ^ 田中(2008) p.3-4
- ^ a b c d Lundy, Darryl. “Alexander Baring, 1st Baron Ashburton” (英語). thepeerage.com. 2015年2月15日閲覧。
参考文献
- 田中文憲「ベアリングズの崩壊:マーチャント・バンキングの終焉」『奈良大学紀要』第36号、奈良大学、2008年3月、1-20頁、ISSN 03892204、CRID 1520853833487548544。
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先代 ウィリアム・モアランド ジョン・ハメット | トーントン選挙区(英語版)選出庶民院議員 1806年(英語版)–1826年(英語版) 同一選挙区同時当選者 ジョン・ハメット (1806–1811) ヘンリー・ポーウェル・コリンズ (1812–1818, 1819–1820) サー・ウィリアム・バロウズ準男爵(英語版) (1818–1819) ジョン・アシュリー・ウォーレ (1820–1826) | 次代 ヘンリー・シーモア(英語版) ウィリアム・ピーチェイ |
先代 エドワード・ピンダー・ライゴン サー・クリストファー・ロビンソン(英語版) | キャリントン選挙区(英語版)選出庶民院議員 1826年(英語版)–1831年(英語版) 同一選挙区同時当選者 マティアス・アトウッド (1826–1830) ビンガム・ベアリング(英語版) (1830–1831) | 次代 ヘンリー・ビンガム・ベアリング(英語版) エドワード・ハーバート |
先代 ジェイムズ・フィッツロイ卿 フランシス・ベアリング(英語版) | セットフォード選挙区(英語版)選出庶民院議員 1831年(英語版)–1832年(英語版) 同一選挙区同時当選者 ジェイムズ・フィッツロイ卿 同職:Lord James FitzRoy | 次代 ジェイムズ・フィッツロイ卿 フランシス・ベアリング(英語版) |
新設 | 北エセックス選挙区(英語版)選出庶民院議員 1832年(英語版)–1835年(英語版) 同一選挙区同時当選者 サー・ジョン・ティレル準男爵(英語版) | 次代 サー・ジョン・ティレル準男爵(英語版) ジョン・ペイン・エルウィス |
公職 | ||
先代 チャールズ・ポウレット・トムソン(英語版) | 通商長官 1834年–1835年 | 次代 チャールズ・ポウレット・トムソン(英語版) |
先代 ジェイムズ・アバークロンビー(英語版) | 造幣長官(英語版) 1834年–1835年 | 次代 ヘンリー・ラボシェール |
イギリスの爵位 | ||
先代 新設 | 初代アシュバートン男爵 1835年–1848年 | 次代 ビンガム・ベアリング(英語版) |